羊田六色のブログ

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我が友、スミスを読んで

「我が友、スミス」(石田夏穂)を読んだ。めっちゃ好きになった。

 僕はレビューなんてできるタイプじゃないので、内容が気になったら買って読んで。もし、読んでレビューを書いたなら僕はそれが読みたい。

 本文中に使われている言葉で気になるのが2つあった。「私にとり」と「とは言え」だ。

「私にとり」という言葉を僕は知らなかった。どうやら「私にとって」の文語体らしい。多用されているわけではないが、知らない言葉だったので、ここに読む目が引っかかった。

「とは言え」は本文の中でとても良く使われている。それはもう目につくほど出てくる。だから気になった。

ところで、「私にとり」と「とは言え」をどうして両方使ったのだろう。

前者は文語体、つまり、書物でつかう表現だ。一方で、後者は「言え」の部分が感じになっている通り、話す時に使う表現だ。

 同じ語りがこれらの言葉を使うのに僕は違和感を感じる。たぶん、この違和感を著者は与えようとしていたんじゃないだろうか。「とは言え」とわざわざ漢字で書いているのが、そんな想像を僕にさせる。また、本文を読んでみると、これらが出てくる文は意味的に分けることができるのも、想像を冗長させる。

 この小説は笑えるところが結構ある。鼻につかないのがさらにいい。

 とにかく面白い。芥川賞の本ってだいたいつまらない、と言う人に読んで欲しい。

余談だけど、著者が年下だと知ってちょっと凹んだ。

セリオンズ“ブルズ”アイン

 セリオンズ“ブルズ”アインが強そうという話をしたい。

 このカードはつい一昨日発売されたディメンション・フォースにノーマルで収録されているモンスターだ。
 ステータスが優秀で炎属性戦士族レベル7、そして 攻撃力も2100と及第点だ。
 このカードを出張で使う場合、使用するのは1と2の効果になる。
 1の効果は墓地の戦士族を対象に発動でき、このカードを手札から特殊召喚して、対象の戦士族を装備するものだ。
 2の効果は「セリオンズ」モンスターと相手フィールドのカード一枚ずつを対象にとって破壊する効果だ。この効果はバックを破壊することもできるのが偉い。強くなった「ならず者傭兵部隊」として使えるだろう。

 炎属性戦士族は焔聖騎士やウォリアーズ・ストライクで出たサポートカードの効果対象となれる。
 特に「焔聖騎士-ローラン」はこのカードを持ってくることができ、かつ前述の効果1で装備する意味のあるカードなので、とても相性がいい。

 レベル7が強いというのは装備できるモンスターに「チューン・ナイト」がいるためだ。
 「チューン・ナイト」は炎属性戦士族のレベル1ユニオンモンスターで、装備されている時に自身を特殊召喚する効果と、自身をチューナー扱いにする代わりにこの後EXデッキからの特殊召喚を一回しかおこなえなくする効果を持っている。
 要は「チューン・ナイト」が墓地にいればレベル8シンクロまで持っていけるのが偉いのだ。
 同じくユニオンチューナーの「トルクチューン・ギア」を装備できる「セリオンズ“キング”レギュラス」がおり、こちらはレベル1と8なのでレベル9シンクロにつなぐことができる。しかし、VFDが禁止されたこともあり、シンクロのラインナップは、レベル9よりレベル8のほうが魅力的だ。

 以上が、セリオンズ“ブルズ”アインが強そうな理由だ。
 僕はロケット戦士デッキでこのカードを試してみたいと思っている。

ハウス オブ グッチ

正直、おもしろくはなかった。というか、おもしろく見る映画ではなかった。

物語について

伏線は序盤によくあったが、それは小さく、物語には大きく関わってこなかった。 また、典型的な悪女とボンボンの話であるため、だいたい筋が予想できてしまい、またそのとおりに進んでいく。 物語に起伏も大きな出来事もないので、退屈だった。

表現について

こっちはかなり良かった。 グッチ一族の凋落が進むにつれて、画面の色合いがあせていった。しかし、パトリツィアは色あせずにいた。 僕はこれを彼女は最初からまったく変わっていないという意味だと受け取った。強欲であり、それゆえあせない魅力がある。力があるといっても良いかも知れない。 一方で、精神的に追い詰められているのも感じ取れた。物語が進み追い込まれていくにつれてアイシャドウが黒く濃いものになっていたからだ。

序盤でマウリツィオとパトリツィアが幸せそうに過ごしている場面があった。 そこで彼らがセックスするシーンがあるのだが、それは獣がしているようだった。 たぶん彼らが本当に、グッチ家の一員でない人間であった場合の生活がそこで描かれていたように思う。

最後に

この映画を見たらグッチを買いたくなくなると思う。 この映画の後、どのようにしてグッチが復活したのか、そちらも知りたくなった。

接続詞と小説

はじめに

しばらくブログを書いていなかった。すばる文学賞に向けて小説を書いていたためだ。 小説を書いていると、接続詞が文章の形態に大きな影響を与えていることに気がついた。 そんなわけで、接続詞の使い方を調べたのでそれをここにメモしておく。

接続詞の働き

  1. 文と文の繋がり方を示す。
  2. 文を分ける。

接続詞には主に上の二つの働きがある。 1は接続詞という名前の通り、文と文を接続し、そのうえ、どんな繋がり方をしているかを予告する働きだ。 2は接続詞が文と文の間にあるものであるため、逆に文のかたまりを分断してしまう働きだ。

小説中での働き

小説は流れていくストーリーを読者に追ってもらうものだ。そのため、文章は続いていることが望ましい。 接続詞は文を分ける性質があるので、文章がそこで中断してしまう。つまり、小説の流れが変化する。 一方で、完全に接続詞を使わない小説は流れがのっぺりしている印象をうける。また、接続詞が使われていないと意図を読み取りにくい。

実際の小説でどう使われているか

  • 時代を遡るほど使用率が増える。
  • 説明パートは多用し、物語パートでは使わない。
  • 文章のテンポが早いところ(話が変わるところ)で多用する。
  • 強調するところに使う。

志賀直哉がてんやわんやする場面で接続詞を連用して速いテンポを表現したのが印象的だった。やはり小説の神様は伊達じゃない。

接続詞の勉強の方法

まずは接続詞に注目した文章指南書を二冊読んだ。どんな接続詞があるか知れたのが良かった。 適当な短編集を買って接続詞にマーカーを引いていった。短編集でも様々な年代のものを収録したものを選んだ。 好きな作者の小説を同様にマーカーを引きつつ読んだ。ちなみに、僕は志賀直哉の文章が好きなのでそれでやった。

接続詞に注目してマーカーを引くことは、接続詞の使い方を勉強する上でとても効果的だった。この後も続けたいと思っており、最近発表された小説と自分が書いて投稿したものでやる予定だ。 接続詞と同じく気になっているのが語尾だ。これも少し調べてみたい

小説書いたよ

 小説を書きたくなったから、書いた。一ヶ月くらいかかったけどなんとか最後まで行くことができた。しかし、まだ完成ではない。ここから推敲をする。特に、ラストが起きる説得力が足りない気がするので、その伏線を貼りたい。また、意味もなく出ているキャラもいるので、そこを違和感なくカットしたい。

 キャラやプロットは書いていたが、結構書いているうちに変わってしまった。だが、そこをしっかりと設定したおかげで、すらすらと書くことができた。やはり、事前準備をしておくと書くのも楽しくなるし、書いたもののクオリティもたかくなっている気がする。

 この小説は3月末締め切りのすばる文学賞に投稿するつもりだ。それを目指して、もっと良いものに磨いていきたい。

「本当」

 amazarashiの「帰ってこいよ」をもし五年前に聞いていたら、僕は泣いたかもしれない。

 僕は名古屋を出て関東に進学をした。そこで勉強して研究者になりたかった。しかし、僕はなれなかった。単純に僕は勉強ができなかった。それでも、と頑張るうちに、講義に出られくなった。そして、大学を中途退学した。名古屋に落ち延びてやってきた。それからも困難は続くのだけど、それは話すべきことじゃないと思う。

 未だに僕には学問へのあこがれはある。いつか学位を取りたいとも思っている。ただ、しばらく離れているうちに、僕は研究者になって何がしたかったのだろう、と考えるようになった。偉ぶりたかった。それもある。ただ、世界を知りたかった。それもある。しかし、それは研究者でなくてもできることだ。そうして、考えているうちに僕は「本当」が知りたかったのだと思うようになった。

 僕にとって「本当」は嘘偽りがないという意味ではない。もっとも素の部分、物事の核、それを僕は「本当」と呼ぶ。それを知るには議論して、意見をぶつけ合わせる必要がある。常識はずれな意見や非道な意見も洗いざらい議論の俎上に出してだ。僕はこれをしたい。

 この思いが、僕に小説を書かせている。いずれ世間にぶつけてみたい。

ロケットデッキのあれこれ

 使いたいカードがある。それを使うだけで満足するかといえばノーである。それを使って勝てば満足するか? それもノー。

 僕は遊戯王が好きだ。だけど、大会というものに参加したことは殆どない。初めて大会に出たときに、対戦相手にリビングデッドの呼び声サイコショッカーにボコられて以来、かなり苦手意識を持っている。そのため、遊戯王といえば友達や弟、父とやるものだった。また、カードショップ(そのころは専門のところはなく、僕の近くでは古書店がやっていた)に行けば勝負できる同年代の子はわんさかいた。

 そんな訳で僕はすくすくとコンセプトデッカーに育っていった。コンセプトデッカーは、トーナメントで勝つことではなく、コンセプトを満足しながら勝つことを目指すプレイヤーだ。

 コンセプトを意識して初めて作ったのが「ロケットデッキ」だ。コンセプトは僕の名刺となるデッキで、宇宙開発が好きだということをわかってもらえれば良いと思っていた。中身はかなりお粗末で、ロケットと名前につくモンスターを入れて、さらに「No.9 天蓋星ダイソン・スフィア」を出すためのギミックをぶっこんだ。ロケット戦士で攻撃力を下げて、「No50ブラックコーン号」の効果で墓地に送ってバーンダメージを飛ばすコンボはよかった。しかし、他が噛み合っていなかった。

 その後、しばらくの悩みつづけた。その間に上述のコンボの中心になる「ロケット戦士」を相棒として活躍させるというコンセプトへ変わっていった。そして、「混沌空間」と「神剣ーフェニックスブレード」のコンボを使った「ロケットデッキ2」が完成した。コンセプトの変更に伴い、最初のロケットデッキから戦士族以外のカードが抜かれ、「ロケット戦士」を活かすために「緊急同調」などバトルフェイズで展開のできるカードを投入した。しばらくはこのデッキでデュエルをしていた。

 ある日、ふと「ロケットデッキ2」はこのままで良いのだろうか? という不安が僕の中で首をもたげた。このデッキは結構強かった。また、新しいカードを受け入れる柔軟性も合った。でも、元々の「ロケットデッキ」のコンセプトである宇宙開発が好きだ、という思いからは離れてしまっていた。宇宙開発は日進月歩の世界だ。この「ロケットデッキ2」の強さに甘えて進歩を忘れてしまっているようでは元のコンセプトを満たせない、そう考えた。

 それから、ペンデュラム型や明と宵の逆転型、自爆バルムンク型といろいろ試した。そして、最近ようやく形になった。これを「ロケットデッキ3」と言おう。一番の変更点は「ロケット戦士」を場に残し続けることだ。先のコンボで言えば、「ロケット戦士」を素材にするのではなく、「ロケット戦士」の横に「No50-ブラックコーン号」を立てるようにした。また、コンセプトを満足する仕方も変えた。デッキの構築でコンセプトを満足するのではなく、そのデッキの戦い方でコンセプトを満足することにした。僕は「柔軟な戦い方」と「犠牲をいとわない勝利」をコンセプトにした。どちらも僕の宇宙開発のイメージから取ってきた。

 そんな訳で、今僕はデッキ作りではとても満足している。だが、デュエルができていない。飢えている。乾いている。デュエルがしたい死体。